歯医者は今日も、やりたい放題


歯磨きは虫歯を予防しない。もし予防するのであれば1本だけ虫歯になる理由がわからない。複雑系の中で虫歯が発生すると考えるのが妥当。歯の受けるストレス、虫歯菌の度合い等々。ただ、歯茎の健康にとってブラッシングによる刺激は明らかに良い。

 

「信じられないほどの過剰削除だ」by スウェーデン&フランス医師

1990年にWHO傘下のFDIが「ブラックの法則の完全撤回」を通達し、イギリスの歯科医師学会は「この改革についてこられない歯科医は無能」と言っているのにも関わらず、日本では相変わらず必要以上に虫歯部分を削り取り、数年後にやはり虫歯が再発し、また削るということを行っている。

現時点で最善の虫歯治療は、虫歯初期であればサボライトという進行止めの薬を塗って進行を見極める。どうしても削る場合は最小限、う蝕した部分を小さく削り、粘着性の高い詰め物を詰める。患者は年に3, 4回は健康診断で歯医者に行く。

 

インプラントは顎の骨に刺さった棘。高齢になったときに口が閉じなくなることもあるのでインプラント除去の手術が必要。だが高齢者にそれは負担。レーシックと同じくリスクを鑑みるべき。

 

入れ歯は歯のあるうちに型を作っておくべき。

 

そもそも歯医者の現状は酷い。歯科医教育のレベルが低い。最新知識・技術もアップデートされない。保険診療で儲けるために不必要な治療を行う。問題だらけ。

 

最悪だった『ちいさな独裁者』

戦争映画といえば、前に見たのでうろ覚えですが、プライベート・ライアンが印象に残っています。冒頭30分くらいの笑っちゃうくらい簡単に人が死んでしまう戦闘シーンや、最後、助けた捕虜に仲間が殺されてそいつをまた自分が殺すシーンが戦争のリアルって感じでしょうか。戦争は必要だいや駄目だというメッセージを発するのではなく現実を淡々と映し出していく。それでも狙撃の名手や男気ある登場人物が話を見せるので、この映画がヒットしたのも納得できます。

プライベート・ライアンで描かれた特殊ミッションは実話らしいのですが、同じ特殊ミッションもの戦争映画という点で似ていると勝手に思ったのは地獄の黙示録です。こっちはもっとドキドキ・ワクワクさせてくれます。でも途中から戦争というかアメリカの?矛盾をついてきてドロドロしてきます。プライベート・ライアンよりは後味が悪く見終わったあとに考え込んでしまいましたが、こっちの方が好みでした。が、二十歳くらいのときに見たのでちゃんと理解できていないと思います。

 

で、先日見たのがちいさな独裁者です。

 

この映画は最悪ですよ。気分が悪くなります。そもそも私は小心者なので、バレそうな嘘をつき続ける主人公の立場でいることが心臓によくなかったです。そしてその詐欺師に対峙するなんでも見透かしていそうな肝の座った男たち。どうしたらああいう百戦錬磨の表情が作れるんですかね。たまーに繁華街で如何にも気質じゃないトッポイ男を見ることがあるけど、あの顔になるまでにどういう人生を歩んできたのだろうか。

話を戻して最悪なんですよこの映画は。そもそも戦争なんて平和な日本で暮らしてきた私にとって想像できる世界じゃないんですよ。だからこそまあほんの少し戦闘状況下に居る憧れみたいなものがあるんですよ。命を懸ける戦友や家族。そして絶対悪としてのナチスヒットラーゲシュタポなんてあれはもう分かりやす過ぎる悪ですよ。ああいうのが出てくるから戦争なんてやっちゃ駄目で、でも戦争しちゃうからやっぱりああいうのに酷いことされちゃったよ、というのがこれまで私の認識なんですよ。

でもこの映画はそもそも我々が悪だと言ってるんですよ。いや、本当は善人かもしれないけど恐怖を前にしたら簡単に悪に魂を売るんです。売ったところでどうせ無様に殺されるのは分かってますけど。厄介なのはそもそも魂売った感じもしないことですかね。なんかモヤモヤするけど流れに従う感じ。気づいたら仲間殺してたよ。でも殺しきれないからトドメささなきゃっていう。思い出す、あの音が嫌だ。戦争映画にああいう感じのリアルさは求めていなかったんですよ。

だから駄目ですよこういう芯を食う映画を見ちゃ。嘘みたいなストーリーなのに実話ベースだなんて本当に救いがないです。今の世の中いろいろ忖度して、結果誰かは地獄に堕ちるじゃないですか。やっぱり忖度させる人なのか、させられた人なのか、それをワーワー言う人なのか、当然犯人を探すじゃないですか。多分全員に責任があるんじゃないんですかね。ていうか人間だもの誰だって悪はありますよ。そこを責めたって仕方ない。だからきっちりとルールを作って悪を出さないように縛るしかないんです。つまり難しいです。

改めてこの映画は最悪ですよ。分かりやすい悪に対峙する正義の戦争の映画を見てスッキリした方がいいですよ。

ちきりん

全く我々なんて、凄いサービスがでたぞ早く使わねば。ああ、使おうとしたときにはキャンペーンがもう終わっちゃったよ。あれ、また今度始まるぞ今度こそ使おう。なんて一喜一憂してきたが。できる人はそもそも視点が違う。そうなんだよ、そもそもそういう問題じゃなかったんだよな。

貧してもいいから鈍するのだけは避けねば。気づかないうちにみっともない生き方をしていた。

いつの間にか「恥をかいてはいけない」という前提の世界を生きてしまっている。だが、冷静に考えて欲しい。恥をかかないように生きるより、恥をかける人間の方がよっぽど格好いいとは思わないだろうか。

確かに!

恥をかいて生きていかねば。むしろ積極的に。とは言ったものの、恥をかくというのは結構なストレスかつトラウマになるのですごく難しいんだよなぁ。

 

同時に、全く矛盾しているのだが、辛い時こそ何も言わずに踏ん張り続けるマティアス・スーナールツの姿に理想の男の姿を見た。あんな生き方できたら格好良いんだけどなぁ。真似したいなぁ。

マティアス・スーナールツ - Wikipedia

 

 

 

感覚否定

gendai.ismedia.jp

えらいこっちゃ。これは完全に自分に当てはまる。

長男への深い愛情については疑いようがないが、同時にひどくイラつくのも否定できない。5歳にもなってヒステリックに泣きわめいたり常軌を逸したフザケ様を目の当たりして本気でぶん殴りそうになることが少なくない。実際に本気のお尻ぺんぺんはこれまでに何回もお見舞いしている。ペンペンが拳になり、場所がお尻でなくなると、私もニュースを騒がしてきた彼らの仲間入りすることになる。決して他人事ではない。

だからこそ私はあの苦い記憶を繰り返し思い返さねばならない。小学生の頃の大好きだった飼い犬ロロとの思い出を。雨上がりにカラッと晴れたその日、私はお気に入りの服を着て朝の散歩に出かけようとしていた。ロロも晴れたのが嬉しかったのだ。泥水が飛び散るのも構わず大好きな私のところに飛びついた。その渾身の愛情表現を前に、私は渾身の力でロロの頭をぶん殴ってしまった。お気に入りの服に茶色の肉球跡をつけられてしまったから。私はあのときのロロの悲鳴と、その後死ぬまで消せなかった自分に対する卑屈な恐怖心を忘れてはいけない。理不尽な暴力を振るったものと振るわれたものとの間に、真の愛情を育むことは無理なのだ。

長男のパニックは、私の浅い社会的経験から簡単に判断をくだせる類のものではない。正しい知識も信念も持ち合わせていない今の長男へのしつけは、いたずらに脅かして彼の人格形成を歪めているに過ぎない。彼のあの不安定な性格は、むしろ私が助長させてしまっていると考える方が妥当だ。

彼に社会性を身に着けて欲しいのは事実だ。それにはしつけは必要だろう。だが少なくとも私は「しつけ」という言葉を使える立場にはない。今必要なのはルールだ。食事は手で食べてはいけない、弟を理不尽に叩いてはいけない、私のメガネのレンズに指紋をつけてはいけない、それらやってはいけないこと及びやってしまった際に発動される罰つまりお尻ぺんぺん、のルールを定める。そしてそれを遵守すべきは誰よりもまず私、次に長男だ。順序が違うのだ。

錦織圭vsワウリンカ感想

46e ABN AMRO World Tennis Tournamentの準決勝、錦織圭vsワウリンカを見てきた。ワウリンカは体格が一回り大きく筋肉もモリモリついているような見た目で、こんな人のストロークを受け続けたら疲弊するだろうなぁ、オレだったら嫌だなと思いながら見ていた。

ファーストサーブも190~200km/hくらいのがバシバシ入ってくるし、対して錦織のファーストサーブなんて160~170km/hでそんなに入らないし、そんなんだからブレイクなんて中々できない。キープするのもデュースとか40-30とかギリギリ。セカンドサーブをなるべく深くいれてあとは足を使ってラリーを頑張る。相手のセカンドサーブを返したらなるべく前にでる。少しでも隙きを見つけたら前にでる。上下左右に走る。これは苦しい。

明らかにワウリンカの方が強いテニスをしてるし見た目もコケージョンだからみんなワウリンカ応援するのかと思っていたが、意外なことに錦織はかなりの人気者だった。大男に対してドロップショットやエアKを駆使して挑む姿は、万国共通人の感情を揺さぶるのか。みんな何かしら挑みながら生きている。

コツコツコツコツラリーを続けたけど結局錦織は負けた。でも、フルセットまでいき最終セットも6-4の善戦だった。これが人生初めてのテニス観戦。初めて試合を通して観たけど、こんな良いものだったとは。このプレッシャーの中、錦織圭は戦い続けているのかと思うと、オレももっと真面目に生きていかねばならないと深く反省すると同時に勝手に勇気をもらった。なんだかよく分からないがシュガーマンを見終わったのような感覚をロッテルダムで一人思った。以上。


アジア的秩序と西洋的寛容

 小田嶋:ルールというか、秩序と自由の問題というのはなかなか深いことでね。どこかで対談した時に、その話になったんだ。たとえば東アジア、中国、韓国、日本というぐらいの、要するに儒教文化がある程度あるところは、100人の人間がいて、みんなが少しずつ我慢してわがままを言わないでいた方が、社会全体としては居心地がいい――といった、秩序優先の考え方をする。

 ところが西洋人の世界では、みんながわがままを言うことがベース。だから他人というものが、わりと迷惑な存在なんだけど、その迷惑の方を我慢しようじゃないか、という原理なのね。人はそもそも自由なんだから、街で変なことをやるやつがいたり、でかい音で音楽をかけるやつがいたりすることの中で暮らしていく。それが人間だよ、と。

:アジア的な秩序というのは、「みんなが一緒に住んでいるんだから、大きい音で音楽を聴くことは、みんなで我慢しましょう」という方だよね。つまり、自由よりは秩序の方を重んじて、共同体を回していく。